さよならは、いわない
darling farewell
さよならは、いわないと彼女は言った。これが別れではないのだからと、涙を零して、嗚咽を漏らして、嘘と丸分かりだというのに、一生懸命彼女は言った。僕は、何もいえなくてただ頷いた。これが別れでないのなら、僕はいつものように帰るよ。騙されたフリをして、ただ頷いて踵を翻した。靴底が床を擦り、彼女の涙で滑ってしまうような気がした。滑ってしまえばいいのだ。そうすれば、彼女といま少しだけ長く居られる。これが本当の別れなのだと知っていた。どんなに、彼女の嘘が上手だったとしても騙されはしないほど、僕は彼女を愛していた。彼女とは反対の方へと歩き出す、二歩、三歩、歩けば後ろから声を押し殺した彼女の泣き声が聞こえた。僕も泣いてしまいたいよ。どうしようもなく足が重い、身体が重い。分かっていたよ、君の変化は小さなことだろうと気付いていたよ。拳を握る。強く、強く握って、血が流れればいい。爪が皮膚を裂き、彼女に僕の赤を捧げてあげたい、それを失いつつある彼女に真紅を。赤い信号がこれほど嬉しいことはない。立ち止まる。何十歩後ろには、彼女がきっとまだ泣いているのだろう、僕に悟らせないように声を押し殺そうとして。そんなに我慢しなくてもいい。盛大に泣き喚けばいい、君はそれを許されている。信号は青へと。そっと最後の足掻きに、耳を澄ます。声を聞かせてくれ、泣き声でいいから。
―――――――………さ よ う な ら
頭が一瞬で白に塗り替えられた。汚れた道路の上で、足を止める。どうして、最後の声が。言わないっていったじゃないか。どうして。君に、別れを告げられたら、もう希望を抱くこともできない。儚い望みを持ったまま生きることができない。どうして、僕を最後の最後に突き放すんだ。これじゃあ、君に囚われ続けることができない。僕は、ただ歩き出した、足取りはどこか軽くなり、それは酷く心が重い。信号はまた赤へ。彼女は一人、ただ声を殺して別れを告げていた、去っていった僕へと。
END
mind control
邪魔だった。いつも、その存在は私にとって邪魔だった。消えればいい、朽ちればいい、幾度も、黒く染まった空にオレンジの光が差す、そんな普通で普遍で当たり前のことのように、私はいつも毎夜願った。消えればいい、朽ちればいい、幾度目の願いだっただろうか、それは唐突に、青く染まった空に黒い侵入者が訪れる不愉快さが伴うような、そんな突然で急激でいきなりに叶ってしまった。その存在は、一瞬で私の前から消えてしまった、朽ちてしまった。妙な静けさの中で、私は、やはり妙な興奮で、手足が震え、呼吸が乱れ、頭痛を耐えて、抜け殻が置いて行かれた、黒と白に包まれた一室に立ち尽くしていた。さあ、これで私は自由だ。これで私の邪魔をする者はいない。口を開くことも、目を開くことも、強制ではなく自分の意思でできる。さあ、こんな汚らしい部屋から抜け出して、私を手招きして待っている世界に羽ばたいてしまう。頭は、そんな言葉たちで埋め尽くされているというのに、私の身体ったら言うことをきかない!動けばいいものを。どうしてだろうか、分からない、理解できない、脳は己を解読することを放棄し、ただその部屋で立ち尽くす。邪魔だった、いつもその存在は私にとって邪魔だった。やっと■んだのに、どうして、まだ邪魔するの!私の身体を返せ!その存在と別れを告げたい、けれど、身体はそれを拒絶する。ああ、もう、どうでもいい。さよならはいわない、いうもんか。アンタはまだ■んでないのだから。邪魔だ、その存在は、今も私の願いを裏切り続ける。
END
narcissism
俺に別れを告げてほしいの?……へえ、随分と勝手なことをいうね。散々、俺のこと振り回して、飽きたら捨てるわけ?最悪だよね、そういうの。人のこと、愛してるだの、美しいだの、独り占めしたいだの、とほざいといて、俺がちょっと好みから外れた成長しただけで捨てるんだ?あんたの愛って薄っぺらいね。薄情すぎて、涙も出てこないよ。死ねばいいよ、あんたなんて。最低だよ、最悪だよ、悪魔だよ!勝手に一人で心の整理つけて、反論は許されず俺は受け止める選択しか残しちゃくれない!酷いよあんたは。……あんたの思惑通りになるのは癪だけど、いいよ、別れようか。もう二度とこっちを向いちゃくれないあんたに、いつまでもしがみ付くのは馬鹿らしい。捨てるよ、あんたを。どこへでも行くがいいさ。もうあんたには二度とついていかないし、二度と話しかけない。これで俺とあんたは、お別れさ、もう俺のこと愛さないでよね、二度と返事なんかしないから。あんたはもう二度と俺を見ないでよ、それができればあんたは立派な正常者さっ!男に恋した自分を、自分に恋した自分を、妄想に取り付かれた自分を、忘れるがいいさ、バイバイ異常者のあんた――
――鏡の中の、俺はそういい捨てるとふっと表情を変えた。その表情は、空ろな目をした無精ひげの生えている、小汚い男だ。気持ち悪い。数年前は、こんなおっさんじゃなかった、肌は雪のように白く、頬と唇はりんごのように瑞々しい朱だった。なのに、たった数年で、俺の愛していた俺は、ただの気持ち悪い生物へと変貌してしまった。もっと中性的な魅力があったのに、男臭いばかりの体格。そんな姿の鏡の俺に、愛を囁くことも、囁かれることも、苦痛でしかない、反吐が出そうになっちまう。俺は俺が好きだったわけじゃない、鏡に映る男とも女ともいえない美の化身を愛したんだ。男なんて愛せない。俺は、俺が告げていた別れの言葉を嫌悪感を感じながら頭の中で繰り返し、もう二度と愛さなくてすむかと思うとほっと胸を撫で下ろした。さあ、寝よう、明日も早い。残業ばかりの毎日でろくな睡眠をとってない。俺は手に持っていた手鏡をゴミ箱に投げ捨てると、ベットへと潜り込んだ。
END