雨の中、私が倒れていたのを見つけてくれたのが
この老夫婦だった。
この方たちは私に記憶が戻るまで
いや、いつまでも居てて良いと言ってくれた
ああ、なんて心優しい二人
私はこの優しい場所で
ボロボロに傷ついている身体と、穴が開いているような寂しい心を休める
その傷が癒え、記憶が戻るまで。
絶望の世界 3
太陽が沈んだ夜は、あまりにも暗い
電柱と月の薄暗い光にしか頼れない
私は心と体、すべての痛みから足がまともに動かせない
ゆっくりと痛みを抑え、足を家にと動かした
「ただいま」
鍵を使って、扉を開ける。
家にはいつも人がいるのに、その人はまるで私を拒むように鍵を掛ける
実際に拒んでいるのだろう。チェーンまでやられていた。
ガチャガチャと扉の隙間に腕を入れてチェーンを外し、家に入る。
「ただいま」
もう一度だけ聞こえるように言ってみる。けれど返事は返ってこない
分かっていることなのに、いつものことなのに、とても悲しくなる。
あの日から帰ってこなくなった言葉を、私は心底欲している。
「……あ」
靴を脱ごうとして気付く。体が土で酷く汚れていることに。
こんな姿のまま部屋に戻ることが耐えられず
軽く玄関先で土をはらってからお風呂場に向かった。
熱いお湯が私に降り注ぐ
冷たい風に包まれていた体は歓喜を上げる
肩から体が温まっていく。
「・・・・っ」
シャワーをゆっくりと傷や痣、泥がついているところに当てた
ピリピリとした痛みが体を走る
鈍い痛みを感じながらスポンジで体を擦り洗う
予想通り、体のいたるところに傷や痣ができていた
いや増えたが正しい。私の体にまた烙印の代わりとなる傷が増えた。
一瞬で吐き気がこみ上げてくるほどの数え切れない傷と痕
永遠に消えないものや数日もあれば消えるもの、様々な烙印
私が罪を忘れない為の、悪魔が施した烙印。
「忘れるわけない……傷なんかなくても、絶対に」
シャワーを止め、タオルで体を拭く。汚れが落ち、さっぱりとした
けれど、心の黒く醜い汚れは落ちることはない
それはどんなに擦っても、洗っても落ちない、汚れ。
シャツとジーンズのラフな服に着替え、お風呂場を出る。
脱いだ制服を洗濯機の中に無造作に放り込んで。
「母さん、今夕食の準備するね」
居間でずっと私の存在を無視している母に
恐る恐ると声をかける。少し声が震えた。
その声を聞いて、ああ私、母さんに怯えてる。なんて他人事に思った。
「……」
母は答えず、ビールを呷る
飲み干した空のビール缶が床にいくつ転がっていた。
母は今日も仕事に行かず、酒を飲んで過ごしたのだろうか。
酷いだるさを感じるが、私は夕食の仕度をする為台所に足を向けた
カチャカチャと金属の音を立てながら
フライパンに火にかけ料理を一つ一つ丁寧に作り始めた。
数十分後、出来た料理を皿にのせて、母のいる居間のテーブルに運ぶ
母の向かいにある椅子に座ってからもう一度声をかけてみる。今度は震えなければいい。
「母さん、出来たよ。食べようか」
ああ、やっぱり震えてしまった。
「…………ねえ……」
「……な、なに母さん」
暫く経ってから、母に声をかけられた。
おかずにのばそうとしていた箸を止め、母の小さな弱々しい声に耳を澄ませる
「ねえ、なんで……」
「なに? 母さん……」
「なんで、あんたがここにいるの」
「え、なにを……」
「なんであんたがここにいるの!」
徐々に声を荒げ、私を見据え強く睨む母の瞳
肉親からの憎しみの篭った瞳に体がブルブルと震えはじめた
怖い。自分の母親に対して持つ感情ではないと分かってはいる
けれど怖い。
私に痛みの烙印を残す人間たちよりも、母が怖いと思ってしまう。
母の瞳には、口調には、いつも私への殺意を含ませていた
それが堪らなく、怖い。
あの日から変わってしまった、私が変えてしまった
母の言葉を心底欲しているのに、母の返ってくる言葉が心底怖い。
「なんでッ!!
なんであんたが生きてるのよッッ!!!」
「きゃ!」
声を荒げてテーブルを叩き、料理がのった皿を私に投げつける
とっさに皿を避けると壁に当たって、皿の割れる音がした
破片が飛び散り、少しでも動くと足で踏みそうになる。
「あんたが! あんたが生きてるせいで私は不幸になったのよッ!
死になさいよっ、死んでこの私に償いなさいようッッ!!」
「い、いたあっ!」
テーブルに乗り出し、向かいで立ち竦んでいる私の髪を
引き千切るぐらい強く引っ張り、怒りに身を任せ母は力いっぱいに私を引っ叩く
「死ね! 死んじまえ!」
バシ!バシ!バシ!、交互にリズムを作って叩かれる
脳が揺れる、顔が何度もの衝撃でジンジンと腫れてくる。
私の髪を引っ張っていた手が唐突に放され、思わず床に倒れこむ
皿の破片が身体の皮膚を引っかくがそんなことより脳が揺れて気持ち悪い。
吐きそうな気持ちを押さえ込んでいると、母が強く足で蹴りつけてきた
「お前の!お前のせいで!」
「きゃ……ぐ……ぐう、ぎッ……」
呻きを喉の奥で殺し、痛みを最小限に抑えるために自分を抱きしめ丸まる。
母は殴り、蹴る。加減などなく力いっぱい、己の中にある私への怒りをぶつけて。
「あんたが作った汚い料理なんか、誰が食べるものですかッ!
死ね、死ねッ!」
「ご、ごめんっなぁ、ぐゥッ!」
「喋るんじゃないわよ、ウジ虫がァッ!」
背中に母の足が食い込み、思わず痛みで転がる
そのせいで無防備になった腹に、力強く足が蹴りつけられた
「……ぎゃっ!!……ぐっ、げぇっ」
腹への唐突な衝撃に胃が痙攣を起こし、逆流して口から汚れが溢れた
まだ何も食べていない私は唾液と胃液しか吐く物がない。
嘔吐する私を見た母は、嫌悪感に体を震わせさらに蹴る
「気持ち悪い!汚い!汚いわよッ!」
「ッ……グァ」
さらに口から汚れが溢れる
息をすることも困難になるほど、逆流は止まらない
オェと何度も咳き込んで苦しい。
「ガッ……ハァ……ァ……ッ」
母の足から逃げるように這いつくばりながら空気を求め
口をいっぱいに開けて舌をだし、空気を吸い込む。
空気のことしか頭になかった私は気づかなかった
母が私の傍から離れたことに。
「ハァ、ハァ……スゥ」
やっと胃が落ち着いて、数回自分を落着かせようと深呼吸する
そして、気づく
蹴られる痛みが全くないことに。
「…………」
いない、母がいない
周りを見渡すと、台所に動く影があった
「母さん……」
思わず呼ぶ。何をしているのだろう。
母は私の声に振り向き、ゆっくりと私に近づいてくる
私の体は母に怯えビクリと震えた
母は穏やかに微笑みながら、私に近づいてくる
あの日から見れなくなった大好きな笑みなのに
どうして私の体は震えるの?
「……ッ!!」
答えはすぐにでた
母のその柔らかな笑顔には、不釣合いな物を持っていたのだ。
「そうよ、最初からこうすれば良かったのよ、フフフ」
笑いながら、母は手を振り上げて、私を見る
「貴方は生まれてはいけなかったのよ
私が責任持って殺してあげる」
「母さん…………」
さきほどの激情が姿を消し、可笑しいほど穏やかな母が私を見て笑う
笑う 哂う 嗤う
その振り上げた手に持っているものは
――――――銀色に光を放つ刃物
そして母は鋭い刃物、包丁を私に向って振り下ろした。
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